Yun-Miko’s blog

「花群」に書き連ねた母の思い。80歳を記念し思い出とともに・・・

ふるさとはほ場整備中

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花群第114号(R2.1)より

 秋田市のごみ処理場を過ぎると、手付かずのままのうっそうとした樹木を右手に、羽州街道の下り坂が続く。今どきここを通る車はほとんどないが、この道は故郷への入り口でもある。

 今は自動車専用道路が並行して走っている。道路が開通したてのころ、「あれ?あれ?」と思う間に専用道路に乗って岩見川を渡ってしまった。故郷はすぐ右下に見えるのだが、降りるところが分からずに遠回りして苦笑したことがある。

 今日は大丈夫。

 お墓参りに行くのも一人では早晩無理になるだろうと思いながらゆっくりと岩見川を渡った。

「わぁ!なんということだ」

 そろそろ色づき始めるころの見慣れた田んぼはどこにもない。一面泥だらけの荒涼たる風景が広がって、数台のブルドーザーがあちこちに止まっている。お盆休暇か。平日はこれらの重機が賑々しく働いているのだろうか。

 私は廃道になったところに駐車して車を降りた。この道を毎日歩いて学校へ行った。両側は田んぼで四季折々の景色を肌で感じて歩いた。

 稲束を積んだ父のリヤカーの先を引っぱった道が微かに十メートルほど残っていた。急だったはずの坂は短くなだらかで、あの頃急だったと感じたことが面はゆい。

 道路も堰も何もない。‥‥‥が、私の眼にはあの頃の風景が見える。

「ほ場整備中」という旗が揺れていた。

 ほ場整備事業は昭和三十八年に創設され、秋田県では三十九年から開始されたそうだ。大館市二井田地区がその第一号という。そういえば、まだ勤めていた二十数年前、上司のところでは始まっていて、「出来上がった時の割り振りが大変なんだよ」と、昨日も今日も集落の会議に頭を悩ましていた。なんとも壮大な事業だ。ようやく故郷の番になったのか。

 

 春、蓮華草が一面に咲いた田んぼを父は惜しげもなく鋤いていった。秋に種を蒔いた蓮華草は田起こしのころになるとピンクの花を咲かせてくれる。農家は繁忙期になっていて花見などしゃれたことはしなかった。

 私たちは蓮華草を見て「きれいだなあ」と花見をした気分でいた。蓮華草はきれいなだけでなく窒素という肥料になると教えてもらった。

 

 それはもうずっと昔のこと。何もかも泥の底に埋まっている。

 実家の前を流れていた堰もなくなり、敷地ぎりぎりのところまでブルで削られていた。水路にでもなるのか、たくさんのU字溝が積まれている。畑へ行く道もなくなっていた。

 

 「ごめんください」

 「ごめんくださぁい」

返事がない。誰もいない。入りますよと言い、仏壇に手を合わせた。

 兄の写真としばらく話をする。兄はこの事業を見ることなく逝ってしまったが、生きていたら不自由な体で監督のような気持ちで作業を眺めていたに違いない。家の中から作業が見えるのだから退屈せずに済んだよな。

 

 お墓に行く道路を挟んで右側には、よく成長した田んぼが広がっている。来年にはここも整備事業が始まるという。

 ご先祖様の墓は奥まっていて、前が大分空いている。お墓の周りをモンシロチョウが一匹飛んでいた。まるで出迎えてくれるように私の後先を緩やかに飛んでいる。合掌しながら父が言ったことを思い出した。父の願望は、「娘たちの誰かがこの墓所を使うように」だった。しかし、考えあぐねて私はそれを拒み、昨年別のところに用意した。

 お参りしている人に知っている顔がいない。それでも二人ほど覚えてくれていて、声をかけてくれた。うれしいわ。故郷に帰ってもまだ少し知人がいることに安らいだ。

 ほ場整備事業が終了すると、農業も、農家も、故郷も変わっていくに違いない。が、私の中の風景はセピア色に変わることもなく、蓮華草が揺れている。

 

 頑固だなあ?

 変わるんだってば?

あなたへ

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花群第114号(R2.11より


「たまに映画に行くのもいいじゃない?」

誰かが発言した。

「いいなぁ」

「いいわよなぁ」

と賛成多数であたふたと映画鑑賞が決まった。

 九月某日、賑やかにおばさんたちが映画館を目指す。

 おばさんメンバーは、かつて同じ町内の婦人部に籍を置いていた。年々戸数が増えてもう更地がどこにもなくなった頃、町内が三つに分割され、当然婦人部も解体されてそれぞれの町内に分かれていった。

 リーダー格のKさんが動いた。

「せっかくここまで親しくなったんだもの、このまま分かれるなんて嫌よね。

 町内とは別に私たちのグループをつくりません?」

 この発言がきっかけで「なごみ会」が発足した。おばさんメンバーはその「なごみ会」のメンバーなのだ。独立独行の運営は会費制で、地区のコミセンを主会場にして年十回ほどの集まりがある、もう二十年も続いているグループだ。

 

 その時上映されているのに高倉健主演の『あなたへ』があった。健さんはメンバーたちとほぼ同世代で憧れの存在でもあるので、迷うことなくそれに決まった。秋彼岸の仏ごとを済ませたメンバーにはほっとする頃でもあり、興味ある映画になるはずだ。

 

 健さん扮する倉島英二は、刑務所の指導技官である。仕事一筋で独身を通していたが、壮年になって結婚。子どもはいない。最愛の妻を五十三歳で亡くした。妻から「故郷の海に散骨してほしい」という絵手紙を受け取る。英二はそれを実行すべく、キャンピングカーで富山から長崎へ向けて出発する。

 車に寝泊まりしながら、途中でいろんな人たちとの出会いをする。長崎に到着したが、風が強くてどこへ頼んでも船を出してくれるところはなかった。嵐の夜、港のそばで食堂を営んでいる親子から温かいもてなしを受ける。そして大滝秀治扮する漁船の親父さんの好意で無事散骨を済ますというストーリーだった。

 花束が波に漂う中、散骨がなされた。

 グッとくるシーンであった。

 映画が終わった。

 八十歳を超えても変わらない健さんの魅力が、いつまでも館内に残っていて、しばらく立ち上がる人がいなかった。

 誰もが自分の未来と重ね合わせて考えてしまった。

「どうする?」

「散骨もいいかも」

「美しく見えるけれど、やっぱり今のままでやるしかないと思う」

 様々な意見が飛び交う。

「それって、自分が考えることなの?黙って逝っても子どもらがやってくれるんじゃないかな」

「子どものいない人はどうなるの?」

「兄弟や親せきがいるじゃない」

 結論の出ない議論がいつまでも続いてランチどころではない。

 あとどれくらいなのか、自分の先は誰も知らない。が、必ず、逝くことは決まっている。

 うーん、ウーン、切ないねえ。

 これが健さんの二百数十本の最後の映画になったそうだ。

 課題の残った映画鑑賞になってしまった。もう少し明るい映画にすればよかったかなと思いながら家路を急ぐ。

 

 帰宅すると電話が鳴っていた。待って、待ってと言いながら鍵を開けたが、同時に電話は止まった。そして、また鳴った。

「弟が今、息を引き取った」

 義姉からの電話だった。弟、それは娘たちの父親である。

 自分に真正直にだけ生き切った彼、七十歳でその生涯を終えた、たった今・・・・・・。

帰り道、考え続けていた「死」についてが、突然現実になって私は動揺した。

 

 もう、八年前のことになってしまった。

 映画を思い出すたびに彼と重なり、彼を思い出すたびに映画が目の前に映し出される。『あなたへ』を鑑賞した日と、彼の死が重複して忘れられない映画になってしまった。

 

 あなたの生き方は本意でしたか?

 悔いはありませんでしたか?

 娘たちへ済まないと思ったことはありませんでしたか?

 孫たちを見たいと思いませんでしたか?

「でしたか?」

「でしたか?」

「でしたか?」

「‥‥‥‥‥‥」

 聞いてみたいことがたくさんあった。普通にしていれば、良い伴侶に恵まれた娘たちの姿や、四人の孫の顔などを見ながら平々凡々に暮らせたはずなのに・・・・・・。

 空になった通帳を残された途方に暮れたあの日から、歯を食いしばって生きてきて、今は幸せな日を過ごしている。 

 「若い時の苦労は買ってもせよ」の言葉どおり、老後に苦労は残していない。よかった?

 

ヨイショ

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花群第115号(R3.5)より


「ヨイショ、どっこいしょっ!」

高齢の方々は、何故かそんな独り言を言って立ち上がる。

「全財産でも背負ってきたのかな?それじゃ、さぞ重いでしょうね」

 彼女が小さなカバン一つなのを承知で、私は呑気に話しかけてみる。

「アハハァ、こうなってしまったのよ、年は取りたくないものだね」

と言いながらゆっくりと歩き出す。

 穏やかな表情だ。

 

 いつからだろうか、気が付いたら私も使うようになっていた。何も持たず、何も背負ってはいない。なのに、「ヨイショ」という掛け声が自然に出てくる。私もとうとうその仲間入りをしたのだ。

 どうも立ち上がる時にその言葉が出るようだ。どれどれ、試してみよう。誰もいないことをいいことにして、最初は何も言わずに立ってみる。気を張っている


いかちゃんと立てた。次は「ヨイショ」と立ち上がる。どちらも立てた。何度かやってみた。意識しているからか、声は出ない。同じ動作を何度も繰り返した。声を出さないように、ヨイショと言わないように意識しながら、やればできるじゃないか。年のせいにはしたくない。意識していることが大切なのだ。

 

 このことについて少しだけ周りを見てみたいと思った。

 例えば、きちんとした席にいるときは誰もが声を出さなかった。反面、くだけた席にいるときには大きな声で「ヨイショ」と掛け声をする。

 また、物事を始めるとき、

「さあ、やるか」

などと独り言を言いながら座ったり、立ったりする。

 

何故なんだ?

私たちは誰に向かって話しかけているの?

誰もいない、いたとしても「どうぞ」と言われたためしもない。聞き流している。

足が痛いの?

腰が痛いの?

いや、まだそんなこともない。

なのに、自然と口からもれるのは何故?

 

 気のゆるみ、体のゆるみが年齢を重ねるごとに増えてくる。だから自分に気合をかけ、「ヨイショ」と声に出してしまうのか。もう一人の私がいて、その私に「引っ張って、立たせてよ」と甘えているのかもしれない。

「高齢者はなぜヨイショというのか」というタイトルで老年学を研究している先生たちはいないだろうか。ぜひともその謎を解明したいと思う。

 

 近頃、サプリメントの広告がおびただしい。

 高齢者は足腰強化のためや、見えたり、聞こえたりしたいと思い、一つや二つは買い求める。「効いてくれ、あの頃の私に戻ってほしい」と願いながら使っているに違いない。あれもこれもと服用している方は、かなりお年を重ねていらしても、元気に畑仕事や雪寄せに汗している。信じているから効いているのかもしれない。

 良し悪しは別として、皺も白髪も、年齢を重ねた勲章として私は隠すことをしていない。だから広告に惑わされることなく素のまま、流れるままに生きている。

 コロナに怯えていたせいか、久方ぶりに会った知人たちが一様に老けていた。「収束するまで自粛するように」を守ってるのだ。けれども、明日をも知れぬ高齢者には取り返しのつかない労しい年月になる。

「もういいよと言われたって、その時は歩けなくなっているかもよ」

「いなくなってしまうかもしれない」

「施設にいるかも」

と、シビアな会話が、「そう、そうねぇ」と止むこともなく続いた。せっかく会ったというのに、どうもコロナ無くして話が進まない。

 失われた年月は高齢者にとって貴重すぎる。本当は一年前の元気だった体を維持しているか心配だ。

 若者は一、二年浪費してもやり直す時間は十分にある。だが高齢者にはもうないのだ。決定的な違いは、悲壮感極まりなく私をおののかせる。

 秋田県ではここ三週間ほど罹患者は出ていない。早く私たちに時間を返してくださいと願うばかりだ。

 

 つい愚痴が出る。愚痴っていても始まらないな。ゆるりと歩いてみようか。若者が闊歩しているあの辺りには、元気の種が転がっているかもしれない。微かな希望を胸に、「ヨイショ」を腹の中に押し込めて雪道を歩いてみた。

ミキちゃん

 

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花群第115号(R3.5)より

「ミキちゃん、ミキちゃん」

呼ばれたような気がして目が覚めた。

「はい、なぁに?」

誰もいない。あの声は聞き覚えのある義姉の声だったような気がした。しばらくぼうっとして夢と現の間にいた。
 私はどんどんと、遥か彼方へとひっぱられて行った。

 義姉妹になった時は、まだ二十代だった。初めて「ちゃん」を付けて呼ばれたとき、気持ちが高揚したことがついさっきのように鮮明に思い浮かぶ。そして、何とも言えない良い気持ちになった。可愛い子供っこのように浮かれた。

「ミギ!」

 物心ついたときから私はこう呼ばれていた。父母、兄妹、村の人、誰も濁音で私を呼んだ。「ギ」という濁音が嫌いだった。テンションが下がっていくような気がして、こんな名前は嫌だよと思った。

 近く嫁いできた若い嫁さんは、丁寧にも

「ミギ子さん、今帰ってきたが」

と、学校帰りに会うたび、私を「子」をつけ、「さん」をつけて呼んでくれた。嬉しくてその嫁さんを大好きになってしまった。ただそれだけだというのに。

 小中学校では百十数名の同級生がいたが、そのころ「子」のついていない女子は数少なかった。年齢が上がっていくに従い、「子」のついた人が珍しくなった。ちょうど名前の流行の狭間だったらしい。私は「子」のついた子たちがうらやましかった。何故か、とても偉く見えたりした。

 片仮名も、「子」も、今の時代の命名にはほとんど無用になっている。名簿は男女の区別なく「あいうえお」順になったとか。

「なんとお呼びすればいいですか?」そう聞かなければ読めない名前が多すぎる。男の子か女の子の区別すらできなくなった。

 私といえば、時々「キミさん」と呼ばれる。キミさんが多くいるのか、初めての場とかではしょっちゅう間違われる。単純な名前なのに間違える人の気が知れない。

 可愛がっていただいた義理の兄や姉たちはすでに他界した。小姑という意識は全くしない、よくできた方々だった。小さな財布に見合うものしか出せなかったが、私の作った料理を「うまい、うまい」と気持ちよく食べてくれた。気持ちが溶け合い、大きな安心感を味わうひと時だった。

 食べている合間にも、よく「ミキちゃん」と呼ばれる。そのたびごと、私は嬉しくて気持ちが豊かになっていくのだった。そして自分の名前が好きになった。

 義姉たちはコーンに盛ったアイスを、道路や祭りなどで売り出した最初の人だった。のちに誰言うともなく「ババヘラ」として有名になったが、苦労を重ねて重ねて販路を広げた、実行力に優れた方だった。時折、許可をもらいに役所について行ったこともあって、行動することのすばらしさを教えていただいた。

 昨夜、私に何を言いたかったんだろう?まだ耳朶の辺りに義姉の声が聞こえる。きっと、「大丈夫だよ」と、ミキちゃんと呼ばれて私が嬉しがっていたことを覚えていて、私を励ましてくれたのだ。

 そうに違いない。

 可愛がっていただいた「ミキちゃん」。

 今は誰もそう呼んでくれないので、これを機会に私は自分で呼ぶことにした。

「ミキちゃん、出かけるよ」

「ミキちゃん、忘れたものない?全部買い物したかな」

「ミキちゃん、ぼやっとしないでしっかり運転頼んだよ」

など、自分に気合を入れることのなんと多くなったことか。その頭に必ず、自分を呼び出し、意識を高める。運転しながら大きな声で「ミキちゃん、今日もしっかり頑張ろうな。ハイ、頑張りますとも」

  他人が聞いたら呆れるだろうが、ここは私一人の居場所、何のためらいもなく大きな声で自分を鼓舞する。

 ナビゲーションが「どこへ行きますか?」と聞いてくる。「ううん、私の頭の中に入っているところだからあなたは黙っていてね」と独り言を言いながらラジオに切り替える。近場だもの、ナビさんのお出ましはいらない。

 いつかナビさんのお世話になりながら、遠くへ行ってみたい。大きく夢を膨らませていると、必ず実行できるような気がして春になるのが待ち遠しくなる。

 ミキちゃん、ミキちゃぁん。

 若返った気持ちでいると「ばば、ばば、あのね」娘に呼ばれた。

 私の呼び名は「ばば」。「ばば」と呼ばれて二十数年にもなった。