Yun-Miko’s blog

「花群」に書き連ねた母の思い。80歳を記念し思い出とともに・・・

ヨイショ

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花群第115号(R3.5)より


「ヨイショ、どっこいしょっ!」

高齢の方々は、何故かそんな独り言を言って立ち上がる。

「全財産でも背負ってきたのかな?それじゃ、さぞ重いでしょうね」

 彼女が小さなカバン一つなのを承知で、私は呑気に話しかけてみる。

「アハハァ、こうなってしまったのよ、年は取りたくないものだね」

と言いながらゆっくりと歩き出す。

 穏やかな表情だ。

 

 いつからだろうか、気が付いたら私も使うようになっていた。何も持たず、何も背負ってはいない。なのに、「ヨイショ」という掛け声が自然に出てくる。私もとうとうその仲間入りをしたのだ。

 どうも立ち上がる時にその言葉が出るようだ。どれどれ、試してみよう。誰もいないことをいいことにして、最初は何も言わずに立ってみる。気を張っている


いかちゃんと立てた。次は「ヨイショ」と立ち上がる。どちらも立てた。何度かやってみた。意識しているからか、声は出ない。同じ動作を何度も繰り返した。声を出さないように、ヨイショと言わないように意識しながら、やればできるじゃないか。年のせいにはしたくない。意識していることが大切なのだ。

 

 このことについて少しだけ周りを見てみたいと思った。

 例えば、きちんとした席にいるときは誰もが声を出さなかった。反面、くだけた席にいるときには大きな声で「ヨイショ」と掛け声をする。

 また、物事を始めるとき、

「さあ、やるか」

などと独り言を言いながら座ったり、立ったりする。

 

何故なんだ?

私たちは誰に向かって話しかけているの?

誰もいない、いたとしても「どうぞ」と言われたためしもない。聞き流している。

足が痛いの?

腰が痛いの?

いや、まだそんなこともない。

なのに、自然と口からもれるのは何故?

 

 気のゆるみ、体のゆるみが年齢を重ねるごとに増えてくる。だから自分に気合をかけ、「ヨイショ」と声に出してしまうのか。もう一人の私がいて、その私に「引っ張って、立たせてよ」と甘えているのかもしれない。

「高齢者はなぜヨイショというのか」というタイトルで老年学を研究している先生たちはいないだろうか。ぜひともその謎を解明したいと思う。

 

 近頃、サプリメントの広告がおびただしい。

 高齢者は足腰強化のためや、見えたり、聞こえたりしたいと思い、一つや二つは買い求める。「効いてくれ、あの頃の私に戻ってほしい」と願いながら使っているに違いない。あれもこれもと服用している方は、かなりお年を重ねていらしても、元気に畑仕事や雪寄せに汗している。信じているから効いているのかもしれない。

 良し悪しは別として、皺も白髪も、年齢を重ねた勲章として私は隠すことをしていない。だから広告に惑わされることなく素のまま、流れるままに生きている。

 コロナに怯えていたせいか、久方ぶりに会った知人たちが一様に老けていた。「収束するまで自粛するように」を守ってるのだ。けれども、明日をも知れぬ高齢者には取り返しのつかない労しい年月になる。

「もういいよと言われたって、その時は歩けなくなっているかもよ」

「いなくなってしまうかもしれない」

「施設にいるかも」

と、シビアな会話が、「そう、そうねぇ」と止むこともなく続いた。せっかく会ったというのに、どうもコロナ無くして話が進まない。

 失われた年月は高齢者にとって貴重すぎる。本当は一年前の元気だった体を維持しているか心配だ。

 若者は一、二年浪費してもやり直す時間は十分にある。だが高齢者にはもうないのだ。決定的な違いは、悲壮感極まりなく私をおののかせる。

 秋田県ではここ三週間ほど罹患者は出ていない。早く私たちに時間を返してくださいと願うばかりだ。

 

 つい愚痴が出る。愚痴っていても始まらないな。ゆるりと歩いてみようか。若者が闊歩しているあの辺りには、元気の種が転がっているかもしれない。微かな希望を胸に、「ヨイショ」を腹の中に押し込めて雪道を歩いてみた。